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いま は とろうかん と ふあん ・・・

 



















 ある ひ ・・・






















 じぶん を みる のが つらく て ・・・


 そのまんま の じぶん を みる のが つらい 。。。

 あまり にも みじめ で ・・・

 この 「 みじめ 」って いう かんかく ・・・

 この かんかく が おれ を くるしめ る 。わけ だ 。


 「 みじめ 」と おもう から には

 そのまんま 、ありのまま の じぶん の してん では ない わけ で 、

 じぶん で つくりあげたる じこにんしき 、「 じぶん は 」と いう おもい から

 そのまんま の じぶん を みて いる 。


 そのまんま 、ありのまま の じぶん で いる こと は むずかしい 。

 いつづける こと は むずかしい 。

 ときどき そういう じいしき が きはく な とき が おとづれる の だが な ・・・


 こし が いたく なり 、

 どうやら きんにく の だんれつ らしい ・・・ と おもわれる のだが

 しゅんかんてき に げきつう も はしる から

 ほね や ついかんばん が せきずい に さわって いる のか も

 しれ ない ・・・

 その りょうほう かも ・・・

 まぁ 、まえかがみ 、ある かくど の まえかがみ に ならなければ 、

 いたみ は かいひ できる よう に なり

 たぶん 、なおる だろう ・・・

 そんな じょうたい が すうじつ つづいた し

 うんどうぶそく でも ない ので

 こし の こしょう は

 overwork から だろう ・・・ と

 いちにち に なんども ゆ に つかって からだ を あたため たり

 ごろごろ して ほん を よん だり して いた ら

 なんだか せいしんてき には つらく なって きて

 その つらさ を みて いたら

 ほん だな 。


 Jiddu Krishnamurti の 「 Freedom from the Known 」の ほうやく 、

 あきらかに ほんやくしゃ が げんちょ の しそう を きほんてき に りかい してない かんじ の ほうやく 、

「 じこへんかくのほうほう 」という ほん を さいどく して いた 。

 Krishnamurti は こんぽんてき に ほうほうろん を ひてい して いる ので

「 ほうほう 」という のは まぎゃく なんだよ な 。

 「どのように したら いい ですか ?」とか

 「 ほうほう 」に ついて きかれたり する と

 きっぱり と かなり きびしく ひてい し 、

 そういう といかけ の たいど では なに も かわらない と いって いる 。

 ほうほうろん は ない とは いえ 、

 どうき や ほうほうろん とは たしかに いえない ような ほうほう 、

つまり 、つね に しんけん に じぶん を みつめること 、

じぶん の いう こと やる こと に きづいて いる こと

というのは あり 、

そう あろう と こころがけて いる の だが

じぶん の なか での じぶん との かっとう 、くのう のようなもの から

かいほう されない 。

 かっとう している な 、ふくすう の じぶん が いいあって いる ・・・ と いうのは わかる のだが 、

 それ が みえ た から と いって

 それ が なく なる わけ でも なく

 ただ かっとう している じぶん が ある 。


 Krishnamurti の はなし は とても きょうみぶかい し あたって いる と おもう が 、

 はなし の ひやく が あって 、その せいしんじょうたいに なった こと が ある ひと で ない と わからない ような ところ が ある 。

 ろんり で るいすい しても わからない のだ 。

 かんがえても わからない ・・・ と いう か 。。。


 じぶん というもの 、せかい というもの が

 じぶん が つくってきた かくうのもの だと いうこと は わかって きた 。

 かくう と いう のは ない と いう こと では なく

 real な しょうせつ のように かくう なの だ 。

 その しょうせつ の しゅじんこう が じぶん と いうわけ だ 。

 しき そく ぜ くう も

 そう かんがえる と まったく じぎ どおり の いみ だと わかる 。

 しき は みえるもの 、げんじつ 、くう は かくう の くう だと すると

 せつめい は いらない 。

 
 ないてき かっとう は 「 じぶん 」が ある から うまれ る 。

 「 じぶん 」が そのまま の じぶん を 「 じぶん 」と ちがうじゃないか 、と いう ところ から うまれる 。

 つまり 「 じぶん 」 と いうのは 「 ありたい じぶん 」、「 あるべき じぶん 」のこと で かくう の image で ある 。

 このこと を にんしき して りかい して 、ありのまま の じぶん の がわ に たて ・・・ と いう のが Krishnamurti の いってる こと だと じぶん は おもう 。

 そう して 、ありのまま の じぶん の がわ に そのまま いる と 、

あまり にも 「 みじめ 」で つらい わけ だ 。


 ありのまま の そのまま の じぶん の がわ に たって いる ・・・ と おもって いて も 「 みじめ 」 と かんじる ほど 、

ありのまま で いる こと は むずかしい 。

 つまり ありまま なんて じょうたい じゃ ない

って こと だ 。


 Krishnamurti を さん じゅっ さい の ころ しって 、に じゅう すう ねん 、

りかい できる と おもえる ぶぶん も でて きた が

いしき じょうたい の layer が かわらなければ

このまま しぬ まで

わからない まま どうどう めぐり しそう ・・・ で つらく なって いる 。。。

りかい した しゅんかん に layer が かわる ・・・ と いう のは

そう だろう な と おもう が 、

その りかい が こない かのうせい が たかい ・・・ な

とも おもえ る 。


 かと いって

 ほか に みち は ない 。

 そもそも いま いる ところ も みち じゃ ない 。

 たどれ ば どこか へ とうたつ する たび を してる わけ じゃ ない ん だ から な 。

 じぶん が どこか へ いどう して なにか を みる

 ので は なく

 いま ここ に いて じぶん を みる たび と いう か process と いう か

そんな こと を theme に いき て いる 。

 
 じぶん に たいして じぶん を みせない かたくなさ 、みせようとしない かたくなさ と いう のは すごい もの だ 。

 その とりで だけ は しんでも ししゅ する ・・・

 そんな かんじ だ 。


 いきる こと の むいみ というか むだ ・・・
 
 そんな もの を かんじ る 。


 しんけん に いき て つきつめて ゆく さき が

 かくう の scenario を じさく・じえん してる じぶん から りだつ して

なん の へんてつ も ない ぜんあく も ない かち の たいけい も ない むいみ な ところ で ふつう に くらす ・・・ とか 。。。


 きぼう も ぜつぼう も なく て

 いま は とろうかん と ふあん ・・・





















 。




















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